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かぶき者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


当時男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通だった。しかし、かぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。他にも天鵞絨(ビロード)の襟や立髪や大髭、大額、鬢きり、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、大鍔、大煙管などの異形・異様な風体が「かぶきたるさま」として流行した。 


多くは徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働いた。自分の武勇を公言することも多く、それが元でケンカや刃傷沙汰になることもあった。辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていた。こうした身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあった[要出典]。 


彼らは、仲間同士の結束と信義を重んじ、命を惜しまない気概と生き方の美学を持っていた。1612年(慶長17年)に捕縛・斬首されたかぶき者の巨魁大鳥居いつ兵衛(大鳥一兵衛、同逸兵衛、逸平などとも書く)は、厳しい拷問を受けながらも仲間の名は最後まで吐かず、代わりに全国の大名の名を書き出してみせた。彼はまた、刀のなかごに「廿五まで 生き過ぎたりや 一兵衛」と死を恐れぬ心意気を刻んでいた。 


かぶき者になるのは、若党、中間、小者といった武家奉公人が多かった。彼らは武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定だった。彼らの多くは合戦の際には足軽や人足として働きつつ、機をみて略奪行為に励み、自由で暴力的な生活を謳歌していたが、戦乱の時代が終わるとともにその居場所を狭められていった。そうした時代の移り変わりがもたらす閉塞感が、彼らを反社会的で刹那的な生き方に駆り立てたという側面があった。 


かぶき者たちは、一方で乱暴・狼藉を働く無法者として嫌われつつ、一方ではその男伊達な生き方が共感と賞賛を得てもいた。武家奉公人だけでなく、町人や武士である旗本や御家人がかぶき者になることもあった。寛永期頃から江戸に現れる旗本奴、町奴といった無頼集団もかぶき者の一類型と見られる。また、1603年(慶長8年)に出雲阿国がかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りを創めると、たちまち全国的な流行となり、のちの歌舞伎の原型となった。 


かぶき者の文化は慶長期にその最盛期をみるも、同時にその頃から幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなっていき、やがて姿を消していくが、その行動様式は侠客と呼ばれた無頼漢たちに、その美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれていく。



                                        

              (古のロックスターw)


面白いすね。まるで今でいうロックミュージック文化のような話ですが、歴史的にみるとこういう趨勢というのは昔からあったんだね~ これ以前のルーツでたどると「ばさら」と呼ばれる室町時代の反社会的勢力もあったようです。


しかし、ただの暴力団というわけでもなさそうで、なかなか根性の座った連中だったようですね。まあ、悪党であれ、善党であれ、根性のあるやつはそう簡単にはくたばらないでしょう。派手な風体を好み、反社会的活動をする、最近見なくなったけど、昨日書いたビジュアル系もそんな伝統的な流れだったのかもしれないすね。


でも、歌舞伎の源流にもなったというのは知らなかったですね。今や無形伝統文化財指定の伝統芸能ですが、あれも元はアンダーグラウンドな文化から生まれたものだったんでしょうね。


「侠客」というのもその流れだったみたいですね。任侠もの、まあ、こっちはリアル暴力団関係ということになるんかなw 「鬼龍院花子の生涯」という映画でもでてきましたが、ああいう世界も元を辿ればこういう歴史的なルーツてあるんですね。


ちなみに、「オタク」のルーツと思われるのが「数奇者」なのかな。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


「数寄」とは本来「好き」の意味であり、特殊な当て字として流布している。専門業とはせずに何らかの芸事に打ち込む様を、特に「すき」と称しているのであり、現代の俗語としては「あんたもすきね」「ものずき」などに通じる。 


古くは「すきもの」とは和歌を作ることに執心な人物を指した様であるが、室町時代には連歌が流行し、特に「数寄」が連歌を指すようになったとされる。 


さらに桃山時代には富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えている。このため江戸時代には、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着する。
 
なお近代になって財界人の間で茶の湯が流行するが、こうした茶人達は多くの名物道具の収集を行っており、その様が桃山時代の数寄者に似るところから「近代数寄者」と呼ばれる。特に益田孝と原三渓を初めとして、松永耳庵、根津嘉一郎 (初代)、小林一三、五島慶太、細川護立、大原孫三郎、川喜田半泥子らが有名である。




私も専門じゃないけど、音楽好きなので「数奇者」かもしれないすね。いやでも、昔からそんなやついたんだな~と思うと笑えますね。なんというか、人って結構つながってないようでつながってるもんなんだなってね。伝統や権威に歯向かっていても、意外に歴史的には予定調和の流れだったりするんだよねw


大義に生きるのも人としての在り方かもしれないが、好きに生きるのもなかなか美しいなと思ったヒストリエでした(*^-^*)


じゃ、またね。




So What by.Miles Davis


パンクぽいのもよかったんだけど、俺は音楽そのものに興味がいっちゃったからね。やっぱり大事なのは戦の後、アフターウォーかな。ある意味戦争より平和の時代こそ、真価は問われるんだろうね。

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